今週の御言

2013年12月1日 渡辺芳雄先生招請礼拝「天一国に向かう私たちの姿勢」

2013年11月24日 題目「神様の創造目的を実現して差し上げる食口となろう!」

2013年11月17日 北谷真雄全国壮年部長招請礼拝「天一国の民の道」

2013年11月10日 題目「真の父母様のみ言を相続し、実体となり、実りをお捧げしよう!」

2013年11月7日 小野教区長40日追慕礼拝

2013年11月3日 井口康雄先生招請礼拝「統一は、真の愛で」

2013年10月27日 天地人真の父母様日本巡回勝利帰国歓迎大会

2013年10月20日 題目「私が天国人になりましょう」前川浩子先生

2013年10月13日 題目「終末論」

2013年10月6日 題目「転換期にある世界と日本―再生へのビジョン」

2013年9月29日 自叙伝書写礼拝

2013年9月22日 題目「堕落論」

2013年9月15日 題目「創造原理?U」

2013年9月8日 題目「創造原理?T」

2013年9月1日 題目「勝共運動からみた文鮮明先生」

2013年8月25日 題目「真のお父様聖和1周忌に寄せて」

2013年8月18日 題目「最高の精誠で聖和1周忌を迎えよう」

2013年8月11日 題目

2013年8月4日 題目「今一度感謝の心を持って」

2013年7月28日 題目「真の愛の行く道」

2013年7月21日 題目「聖和1周年追慕礼拝に寄せて」

2013年7月14日 題目「今日の摂理史観」

2013年7月7日 題目「真の愛を中心とした人生行路」

2013年6月30日 ハワイでの真のお母様のみ言、徳野会長メッセージ視聴 

2013年6月23日 題目「決心!」

2013年6月16日 題目「使命に対する自覚」

2013年6月9日 第51回真の万物の日、ビデオ礼拝

2013年6月2日 題目「伝道者の姿勢」

2013年5月26日 第31回全日本聖和祝祭

2013年5月12日 題目「7年路程勝利の主役になろう!」

2013年5月5日 "VISION2020”「世界出征礼拝」

2013年4月21日 題目「真の父母様の証人になろう!」

2013年4月14日 題目「自己創造、相対創造」

2013年4月7日 題目「万物を愛する心、人を愛する心」

2013年3月31日 題目「心のサタンを取り払おう!」

2013年3月24日 題目「み旨(志)の成就のための決意」

2013年3月17日 題目「愛天愛人愛国の生活」

2013年3月10日 多摩東京教区発足記念礼拝

2013年3月3日 古屋教会長離任特別礼拝 題目「見方を変える」

2013年2月24日 基元節式典の帰国報告

2013年2月17日 天地人真の父母天宙祝福式

2013年2月3日 題目「回心の時」

2013年1月27日 宋龍天総会長 インターネット礼拝

2013年1月20日 基元節勝利のための全食口連合礼拝


2013年1月13日 題目「本然の血統と連結された為に生きる生活」

2013年1月6日 宋ヨンソプ総会長 インターネット礼拝

  2012年以前の礼拝内容はこちらをご覧下さい。

ヨブ記に見る神 (2011年夏季牧会者説教集に掲載された説教です)


世界会長の文亨進様は私たちに聖書を読みなさい、賛美歌を歌いなさいとおっしゃいます。真のお父様も最初は聖書講義から出発されました。

私たちはキリスト教の土台に立つ統一教会であるといえます。クリスチャンが超えていった心情圏を凌駕して行かない限り、クリスチャンは屈服しないでしょう。十字架が神の予定でなく、人間の不信仰であるという内容はクリスチャンから見ればイエス様を否定されたように感ずるし、受け入れがたい内容に思えます。

イエス様がどのような心情を持って歩まれたか、2000年間人類に影響を与え続けてきたキリスト教であり、聖霊体験をしているクリスチャンであります。2000年前に亡くなられたイエス様が、今現在生きているこの私の罪のために十字架に架かられたのであり、クリスチャンに「あなたは救われましたか?」と尋ねれば「もちろん救われました。」という答えが返ってきます。「いつ救われましたか?」といえば、「十字架上で救われました。」と返ってきます。クリスチャンは明確な救いの実感を持っています。

真の御父母様がそのイエス様の心情を感じ、悟った世界が何であるかを亨進様が尋ねて悟った時、真の御父母様は「ついに、ついに悟ったんだね」と言われ、亨進様を泣きながら抱きかかえられたという話を聞きました。

私たちはクリスチャンが超えた世界と連結するには、聖書の内容を土台としていくことが必要です。

新約聖書の少なくとも四福音書および使徒行伝まではしっかりと読みこなしてほしいと思います。旧約聖書は過去の中心人物の歩みに照準を合わせて見て行くと、私たちの歩み方が明確になってきます。

今日は、難解とされているヨブ記の話をしたいと思います。

ヨブというとてつもない信仰者がいました。人となりは正しく、神を恐れ、悪に遠ざかったとあります。このヨブをめぐって神とサタンが口論します。

神様はヨブを誇り、ヨブに絶対的な信頼を寄せています。しかしサタンは、「神様いたずらにヨブは神を恐れるんじゃありませんよ。あなたは彼とその家や、所有物に間垣を設けられたじゃありませんか。垣根を作ってヨブを繁栄させて来たじゃありませんか。今それらすべてを彼から奪ってみてください。彼は必ずあなたを呪うはずですから。」と試練します。神様は「わかったそのようにしよう、ただし彼の体だけは打たないでくれ。」といい、実際ヨブから全てのものが奪われました。万物、僕たちそして子供たちまで。

この時ヨブは、「私は、裸で母の胎を出たのだから、裸で帰ろう。」といい、そのヨブを神様は誇ります。ヨブのような立派な信仰者はいないだろうと。

その時またサタンは言います。「お言葉を返すようですが、あなたはまだ、彼の体を打っていないじゃないですか。体を打てばきっと彼は神様を呪いますよ。」と。

神様は「わかった、体を打ってもいい、しかし命だけはいかしておいてくれ、後はどの様にしてもいい。」と答えます。

そうして、全身、腫れ物だらけ、膿だらけの体となり、陶器のかけらで体をかきむしり、灰の中に座るヨブに、妻も「あなたは神様を呪って死になさい。」といいます。この時ヨブは、「我々は神様から幸いを受けたのだから災いをも、受けよう。」といいます。ここまでくると私たちは、ああ自分には無理だなあと思ってしまうかもしれません。

サタンというのは、私たちが、神様を呪うこと、神は当てにならない神なんだという心を私たちの中に起こさせるのがサタン。神を呪わせるのがサタンです。

ヨブの話はこれ以降が本質的話なのです。

3人の友達がやって来ます。その友達はヨブのために一緒に泣いてあげる友達、7日7夜一緒に悩んであげる友達です。尋常な友達ではありません。その友達がヨブに言いました。「このようなことが起こるということはきっとあなたが神に対して何か悪いことをしたからです。」とヨブを説得しにかかりました。神様はやたらに人を傷つけることはないよ、こういうことが起こるということは、あなたが神様に何か罪を犯したんじゃないか、あなたの中に非があったんじゃないのかというのです。友達は因果応報の話をしているのです。ヨブの話は因果応報に対する挑戦でもあります。

信仰と信心は違います。まったく違うわけではありませんが、信心とは自分の願ったこと、願望がかなうことの期待、いわばご利益的なところがあるといえますが、信仰とはいいことも悪いことも受け入れていく、災いにあっても神を信じて仰いでいくのが信仰です。ヨブも最初はどうしてこんなことになったんだ、どうしてこんな目に遭わないといけないんだと思いました。私たちも何で自分だけが、何でこうなんだと思うことがあります。

 

ヨハネによる福音書9章1節に生まれつきの盲人の話が出てきます。イエス様に弟子たちが聞いています。


「先生、この人が生まれつき盲人なのは、本人の罪ですか、それとも両親の罪ですか。」と。そのときのイエスの答えは「本人でも、両親でもない。ただ神の御業がこの者の上に現れるためである。」というものでした。私たちはよくバチ論を口にします。因縁を口にします。もちろん、物事を意味あることとして捉えていく姿勢は必要です。もう一度私たちが本質的に物事を捉えていくことが願われているのではないかと考えます。統一教会が本質的に変わらなければいけない、因縁霊界から脱却しなければいけないのではないでしょうか。

ヨブの問題は、罪を犯したから神がヨブをそのような立場に置いたのではないと言う事を私たちに教えています。神様は、罪を犯したからそのような境遇にヨブを送ったのではないのです。ヨブの苦しみは罪故じゃないんです。罪に対する神の罰ではないのです。

神が神である、ただそれだけの理由で私たちは神を愛し、賛美していくのです。3人の友達は神について語っているのです。ヨブは神について語っているのではなく、神に向かって語っているのです。私たちは神という言葉をあらゆるところで使っています。しかし、本当に神に向かって語っているでしょうか。悩みも、苦しみも、うらみも、つらみも神に向かって語ればそれは祈りとなるのです。なぜこんな目に遭わなければいけないんだ、と思う私たちは、もう一度神に向かって語っている私になっているかを見つめていきましょう。

ヨブの話の最後には沈黙していた神がすさまじい波動を持って現れます。


「無知の言葉を持って神のはかりごとを汚すこの者はだれか。」これはヨブの悩みに対する答えではありません。神はヨブの悩みにまったく答えていないのです。

神のことばは、

「お前はいったい何者なんだ。」

「お前は知っているというけれど何を知っているんだ。」

「何も知らないじゃないか。」

「お前は私に造られたものじゃないか。」

「岩間のヤギが子を産むときを知っているのか。」

「雌鹿が子を産むのを見たことがあるのか。」

「海の源に行ったことがあるのか。」

「私が地の基をすえた時、お前はどこにいたのか。」

「もし知っているなら言え。」

本当にお前は知っているのかということばでした。その時ヨブは私は何も知らなかったんだ、と悟り「今まで私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今私は目であなたを見ています。」といいます。私たちは、目をもって神様を見ていますか。

ヨブの話は、いいことをすれば必ず報われるという話ではないのです。常に神が自分の中にある私となっているか。お前はいったい何者なんだという神様の問いかけに答えられている私になっているのか。

神が神であるという理由だけで信仰していく。お父様もそうです。興南に行くときも、ダンベリーに行くときも「何でこうなんだ」とは思わない。「いつここから出られるか。」という事すら思わない。ただ一心不乱に神の前に精誠だけ尽くしていこう。このことにより真の御父母様は摂理を開いて来ました。

私たち自身が変わらないといけない。

天福宮の奉献式のとき、お父様は朴普煕先生に「お前はいったい何者なんだ。」「私の息子なのか、友達なのか。何なんだ。」とおっしゃり「息子です。」と答えた朴先生に対して「息子なら私に似てないといけないじゃないか。」「何で似てないんだ。」とおっしゃり、「いつまで息子なんだ。一週間か。」朴先生は「一生息子です。」と答えられました。

私たちは教会長という名前で天国に行くわけじゃない。息子、娘という名前だけを持って天国に行くんですと、亨進様も語られ、すべては流れる雲です、絶対なのは真の父母様だけですとおっしゃられます。

私が何者であるかという事をはっきりと知る私たちとなり、新しい時代にふさわしい歩みをするものとなって行きましょう。

ありがとうございました。